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「男女間の友情は成立するか?」

今年で34歳になる既婚でメタボのおっさんが書く事じゃないようなことを書きます。
青臭い話。

「男女間の友情は成立するか?」なんてことを誰しも一度は考えた事があると思う。

誰でも肯定にせよ、否定にせよ、一家言あるんじゃないだろうか。

僕は断然、男女間の友情は肯定派だった。

恋愛感情抜きで、一緒にいると楽しい相手というのは全然あると思ってた。
少なくとも相手も(僕の場合は女の子の友人)同じ意見だったら、成立するもんだと信じてた。

僕の通ってた美大という場所は……いやこれは別に、美大の一般的な様子かどうかはわからないけど… 例えば一人暮らしの異性の部屋に上がり込んでも、セックスOKとかそういうんじゃなく、おしゃべりして、ご飯を食べて、 時には酒を飲んで、(文字通り)寝て、次の日何も無いままバイバイするというのが普通にあったし、映画や美術館を観に一緒に出掛けたり、どう考えても他人から見たら「デート」なシチュエーションでも、「遊びに行く」という言葉で括ってた気がする。

まあその分、実際恋愛に発展させようとする場合、相手の行動の何を持って「脈あり」だとするかは、やけに難しい環境だったかもしれない。

それはさておき、

大学を卒業してもうすぐ9年。
今では正直言って、男女間の友情は成立するか、全然わからない。

今でも連絡を取り合っている大学時代の異性の友人もいるし、(ほぼマイミク。mixiが無かったら……こわ)別に大学時代に限らず、異性の友人は今でもいるんだけど、もちろん疎遠になってしまった人もいる。
そして、最終的に結局恋愛でお互いを傷つけ合うしか無かった人も、いる。

例えばお互いに結婚もしていなくて、交際相手もいない状態で、恋愛に発展し得ない異性間の友情というのはあるのだろうか?
あると思うんだけど、例えば「お互い恋愛対象としては好みじゃないから」とか「昔付き合っていてお互い恋愛ではうまくいかないとわかっているから」みたいなある種のストッパーがそういう場合は大抵効いている気がする。
その時点で「恋愛」という命題から逃れているわけじゃないような。

結局、子孫繁栄のためのメカニズムである「恋愛」から完全に自由な友情って同性間 (もちろんノーマルセクシュアリティの場合)しかないのかなあ、とかそんなことを思ってます。

無職で考える時間ができたからかな。
最近いろいろ昔の事を思い出しながら、感傷的な気持ちになります。

おしゃれな奴に対してムカつくのはなんでだろう

ある時、サイトデザインなんかのネタ集というかリンクを集めているブログがあって、ああ、参考になるなあと深く考えずにRSSをGoogle Readerに登録した。
でもその後配信されるRSSを読むと、どこそこのカフェに行ったとか、ナンバーナイン(人気ブランド)のセールに行ったとか、そんな話題が多くて辟易し、「ケッ、おしゃれなアーバンライフかよ。お前の行くカフェとか着る服に興味はねえよ」という感じでRSSを登録解除した。

しかしよく考えてみると、私もカフェには行くし、洋服も好きだし、東京の下北沢に住んでいて、カタカナの肩書きで、別に大差ない生活を送っているのだった。
単に生活の中でどこに重きを置くか、どこを切り出すかという違いだけのようにも思える。
それにも関わらず、なぜ私は件のブログに対してひがみの裏返しとも言えるような見方をしたのだろう。
目的(参考になるサイトデザインの資料)以外のノイズが多いことに不快感を示したという部分もあると思うけど、それだけじゃないような気がする。
例えばそのブログがネタ集以外に赤貧エピソードやキツい職場環境が綴られていたら、RSSの登録解除はしていなかったのではないか。

私の知り合いや友達の女性で、割と社会的に地位とか立場を確立している人は、ネットでのコミュニケーションがうまく行っていない場合が多い。
自分のサイトを持っていても嫌がらせを受けて閉鎖してしまったり、ブログでも心ないコメントなどを受けてだんだん更新頻度が落ちていったり、そもそもほとんどレスポンスが無かったり。
そして恐ろしいことに、私自身が、その知り合いや友人のブログやサイトに対して不快感を持っていることもある。

美容や食のライターやアドバイザーをしている友人のブログ。
フランス人と結婚してフランスに住んでいる知り合いのブログ。
ミュージシャンとして各地を飛び回っている友人のブログ。
イラストレーターとして活躍している知り合いのブログ。

共通しているのは少なくとも傍からみると、華麗で洒落た生活を送っていることだ。
アップされた文章や写真も、素敵できらびやかだったりする。

徹夜で仕事をしていて、ふと手を休めて彼女たちのサイトを見ると「ケッ」と思う。
いいよな。お気楽で。
でも私は実際には彼女たちがサイトに載せない部分で努力したり苦労したりしているのを知っている。
それは親の介護だったり、流産だったり、私と同じように仕事での徹夜だったり、様々だ。

ネガティブなことを書かないのは美学なのかもしれないし、単に自分をより良く見せたいのかもしれないし、プロとしての職業意識かもしれない。
とにかく言えるのは、彼女たちのネット上でのプレゼンテーションはうまくいかなかった(いっていない)ということだ。

ネット上のコンセンサスは社会的弱者にある。
お金が無い人。仕事が無い人。時間がない人。心が弱い人。
旧来メディアには社会的強者の声しか載らなかったのとは対照的だ。
重要なのはコンセンサスが弱者を中心になされている以上、別に弱者じゃない人も、このコンセンサスに則って意思決定しがちだということだ。

だから旧来メディア、既存メディアで成功した人は、ネット上では攻撃される側にある。
かといって安易なポピュリズムに走るのも、不幸自慢、露悪趣味になってしまうのももちろん良くないし、「キャラ作り」が露見した時は炎上すること間違いない。
この辺のバランス感覚を持っているかどうかがカギになるんだろう。
例えば、経済評論家の勝間和代さんは、女性で社会的に成功している方では、一番そのへんをうまくやっている気がする。

拝啓、ステファン・サグマイスター。

I’ve seen movies that moved me, read books that changed my outlook on things and listened to many pieces of music that influenced my mood. Somehow, I never seem to be touched the same way by graphic design,

自分を感動させてくれる映画があった。
物事の見方を変える本があった。
僕の気分に影響を与えた多くの音楽を聴いてきた。
どういうわけか、グラフィックデザインが同じような感動を与えてくれた覚えは決してない。

上の文章は、雑誌「アイデア 275号」に載っていた、
ステファン・サグマイスター(Stefan Sagmeister)の文章の一部です。
私が大学4年の夏の時に発売された号。
大学でグラフィックデザインを学んでいたにもかかわらず、私は結局グラフィックデザイナーにはならなかったわけだけど、その理由の一つは、人生の岐路に立っていた時にこの文章に出会ったからです。

もちろん彼は、本当に人の心に届くような、物の見方が変わってしまうようなグラフィックデザイン、タイポグラフィを生み出そうとしているからこそ、そういうことを書いたわけだ。

ちなみに上の文章は

leave alone a piece of typography.

ただ一片のタイポグラフィを除いては。

と続き、そのあといかにもサグマイスターらしいエピソードが語られます。

彼の言う、人の心を揺り動かすクラクラするようなデザインは、その「アイデア 275号」を見ればわかります。
Sagmeister
彼自身の体にニードルで傷つけて書かれた「Stefan Sagmeister」のサイン。そしてプロフィール。ところどころ血が滲んでいます。(※画像はトリミングしており、オリジナルのデザインではありません)
タイポグラフィをフォントの配置くらいにしか考えていなかった私はものすごい衝撃を受けました。

そして今私は、人を感動させたり、物の見方が変わってしまうようなものを作り出そうと飛び込んだアニメーション業界を去ろうとしています。

ステファン・サグマイスター、あなたは立派だ。
少なくとも私は、日々のおよそクリエイティビティとは縁遠い仕事の中で、あなたのような高邁な理想とモチベーションを維持することはできなかった。

あなたの背中は昔も今も遠い。

ステファン・サグマイスター
1962年、オーストリア生まれ。ウィーンの応用美術大学で美術学修士号(グラフィックデザイン専攻)を取得。フルブライト奨学生としてニューヨークのプラット・インスティテュート修士号取得。広告代理店レオ・バーネットの香港オフィス、ニューヨークのM&Co.にクリエイティブディレクターとして勤務した後、1993年ニューヨークにサグマイスター・インクを設立。グラミー賞パッケージ賞に4回ノミネート。クライスラー賞、ニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ金賞、東京TDCグランプリなど数多くの国際的なデザイン賞を受賞する。

大日本印刷のサイトより引用

「ストック」メディア、「フロー」メディア

経済学で使われる、「ストック(Stock ; 資産)」と「フロー(Flow ; 支出)」という言葉が、メディアに対しても使われているということを知りました。
人文学系の人や、いわゆるブロガーの人たちにとっては周知の事実なのかもしれませんが、なるほどしっくりくる言葉だと思いました。

  • ストック=蓄積、恒常的
  • フロー=流動的、刹那的

というようなニュアンスだと解釈しています。

例を挙げると、

  • 書籍=ストック、雑誌=フロー
  • DVD=ストック、映画=フロー
  • Wikipedia=ストック、2ちゃんねる=フロー
  • 手紙=ストック、携帯メール=フロー

とまあ、こんな感じでしょうか。
例はいくらでも挙げることはできますが、まあだいたいそんな感じ。
さらに掘り下げると、メディアは同じでも、コンテンツの質によってストックとフローは別れるかもしれない。

  • ジブリアニメ=ストック、深夜の名も亡きアニメ=フロー

いや、これは単なる淘汰かな?
話を戻すと、僕は昔からこのストックとフローという概念をなんとなく意識しつつ、でもうまく自分の中で明文化、体系化できていなかった気がします。

例えば、今この日記を載せているブログ。
ブログはストックなのか、フローなのかと言えば、たぶん多くの人にとってはフローなのでしょう。
mixiも、これは個々のブログによりますが、やっぱり、多くの人にとって、フローなのだと思います。

それはつまり、ブログやmixiの「読み手」にとっては(もちろん私自身も含めて)、コンテンツとしての普遍的な価値よりも、「その時つながってる感」、「コミュニケーション」の面白さが、魅力的だということ。
これだけ世の中の多くの人が参加したり、読んだり書いたりして盛り上がるのも、それが大きいわけだ。
もちろんアルファブロガーや、数百人マイミクがいるような人は、普遍的かは置いておいても、コンテンツとして面白いものを書いているのだと思う。

でもさ、媒体(メディア)がなんであれ、俺が常に作りたいもの、書きたいもの、描きたいもの、それはフローじゃなくてストックなんだわ。
かつて、広告業界から、ディズニーに転職したのも、TVCMという究極に「フロー」なコンテンツを作っていて、「ストック」を求めていたような気がする。
で、mixiの日記ですらもなんか読む価値があるものを書こう、と思っていました。

でもブログとかmixiで、フローの要素を無視してやっても、ダメなのかもしれない。
牛丼屋に入ってきたお客に、刺身を出すようなものかもしれない。
ということに、今更ながら気がつきました。

ブログとかmixiでなくとも、これからはストックが浸食され、フローが拡大していく傾向にある。
つまり、「ストック」を作っているつもりが「フロー」だったということが起こる。
もともと「フロー」を作っていたつもりでも、空気読めてないということが起こりうる。
コンテンツ制作者だったら常に意識しておいて損はない概念だと思う。

俺は「牛丼を食べにきたけど、コレはコレでウマいね!」と言われる日を夢に見て試行錯誤を続けます。

電子オルガン奏者の振り見て我が身を振り返る

小学生の頃、エレクトーンを習っていました。
エレクトーンというのはヤマハの商標なので、一般名詞では電子オルガン。

学生時代の知り合いで、プロの電子オルガン奏者(エレクトーン奏者)になった人がいます。
ずいぶん前になりますが、その人の演奏を聞きに行きました。
カフェを貸切にしたミニライブで、ジャンルとしてはコンテンポラリーなのかな。
その人自身が作曲した曲を演奏する。
興味深く、面白く拝聴したのですが、ひとつの疑問が浮かびました。

プロの電子オルガン奏者っていったいなんなのか?

調べてみると、
ひとつは野球場などスポーツ会場で試合の合間合間に流れる音楽を演奏する人。
その他大小各種イベントなどで必要なのでしょう。
もうひとつは音楽教室の先生。
エレクトーンという楽器自体、日本の(ヤマハの)音楽教育システムとともに発展してきた経緯があります。

まあしかし、ピアニストやキーボーディストに比べるとニッチというか、マイナーっぽい。オーケストラと共演もしなければ、バンドに参加もしない。(私の知り合いの方は他ジャンルの方と共演されたりして活躍されているようなのですが、やはりもともと知り合いでなければ私が知ることはなかったと思うので……)

これ以外に教会のオルガンを演奏する人(元々のオルガン奏者はこっち)、ハモンドオルガンを演奏する人なんかがいるけど、今回はパイプオルガンから派生したこちらのジャンルには触れません。

で、さらに調べていくと、どうも電子オルガン奏者共通の苦悩があるみたい。
曰く、「電子オルガンの音楽上の特色とはなにか?」

電子オルガン自体の特色というのはもちろんあって、それは一人で言わばバンドの全てのパートを演奏できるというところ。右手で主旋律。左手でコード。左足で ベース、右足で音量をコントロールして、さらにリズムマシンがついている。なんというかチンドン屋的というか大道芸人的なところがあります。

当初は中身はアナログシンセサイザだったので、良くも悪くも電子オルガン独特の音がしていたけど、どんどん技術が進化して、今の最新モデルはサンプリング音源でいろんな楽器のリアルな音が出る。そのことが逆に電子オルガンとしての存在意義を弱め、単なる「代わり」にしてしまっているんじゃないか?オーケストラでは規模が大きすぎるから電子オルガン、バンドでは予算が足りないから電子オルガン。

じゃあ電子オルガン用の曲ってなんなのか?
バンドスコアをただ演奏すればいいのか?
演奏の仕方は個々の楽器を真似りゃいいのか?

まあおおざっぱではあるけど、こういう“電子オルガン奏者の”葛藤があって、そこから出発して個々の回答を導きだしていくらしいです。電子オルガン奏者の方がもしこれを読んだら、それは違う!とかあるかもしれないけど。

で、私が思ったのは、“電子オルガン奏者の”アイデンティティなんてどうでもいいじゃん。
大事なのは、いい楽曲を作ることだったり、いい演奏をすることなんじゃないの?ということです。
楽器は音楽を奏でる手段であって目的ではない。

ふと我が身を振り返ると、アニメとアニメーションとか、アナログとデジタルとか、ものすごく些末なことに拘泥している自分に愕然としました。

細かいことはどうでもいいから、いいものを作らなきゃな。

「おひとりさま」のミスリード

「おひとりさまの老後」という本が売れているらしい。

あることが不安で気になって本屋で立ち読みしてみたら、やっぱりその通りだったので、書いておきます。

そのあることというのは「おひとりさま」の意味。

「おひとりさま」という言葉、数年前から「負け犬」という言葉と一緒に流行って、定着した感があります。で、ごっちゃに使われている。
元はそれぞれ本のタイトルから来ていて、

  • 「おひとりさま」著者:岩下久美子
  • 「負け犬の遠吠え」著者:酒井順子

がそれに当たります。

世間的には「30代以上・未婚・子ナシ」くらいの意味合いなのかな?
いや、「おひとりさま」は未婚女性くらいの意味合い?

「おひとりさまの老後」では、この「おひとりさま」と「負け犬」という言葉がポンポン出てきて、入れ替え可能な言葉として扱われている感じ。
もちろん内容は独身女性の老後の話です。

でも結論から言えば「30代以上・未婚・子ナシ」というのは「負け犬」の定義であって、「おひとりさま」の定義ではありません。

書籍「おひとりさま」の帯にはこんな風に書いてあります。

おひとりさま [ohitorisama]

  1. 「個」確立ができている大人の女性
  2. 自他共生”していくための、ひとつの知恵。
  3. 仕事も恋もサクセスするために身につけるべき生き方の哲学。
  4. individual
  5. 通常は、一人客に対する呼称。

<注>シングル(独身)主義・非婚提唱・孤立・自閉・利己主義は別義。
※太字原文ママ

さらに内容を読むと「おひとりさま」というのは、「女性が一人でバーやレストランや旅館やホテルに入る」ということについて、お店側と女性自身の意識向上を目指すという、一種のフェミニズム論だとわかります。お店の人や他のお客に対しては「ひとり=淋しい」という偏見を取り除く。女性自身に対し ては、“一人だから出掛けられない”という環境への依存から、一人の時間を大切にして、仕事や恋や育児に頑張れる女性に。

そしてなにより、著者の岩下さんご自身、既婚の方です。

つまり本来、既婚で子持ちの「おひとりさま」はいるし、「30代以上・未婚・子ナシ」だけど「おひとりさま」ではない人もいる、ということです。

皮肉にも今「おひとりさま」という言葉を使う人に限って「ひとり=淋しい」という文脈で自嘲気味だったりします。これはどうなんだろう……

「おひとりさまの老後」の著者、上野千鶴子さんは日本のフェミニズム運動の旗手で、ジェンダー論の権威、東大教授という方なので、当然「おひとりさま」の元の意味を知った上で、あえてミスリードしているはず。だけどタイトルにもしているのに、「おひとりさま」の定義に全く触れていないのはちょっと気になります。

「おひとりさま」の著者の岩下久美子さんは、私のよく行くバーの常連でした。残念ながら、「おひとりさま」発売の直前にお亡くなりになられ、直接お会いすることはなかったのですが、そのかすかな縁あって、ずっとこの言葉のことが気になっていたので書いた次第です。

Wiiは買わない方がいい。

任天堂のWiiを発売日に買ってから、3ヶ月以上が経ちました。
結論としては、Wiiは買わないほうがいいです。

以下チャート。

●Wiiを買った

まずはソフトを買おう

●「ゼルダの伝説」と「Wiiスポーツ」を買った

テニスで友達と対戦したいなあ

●「はじめてのWii」を買い、ふたつめのリモコンを手に入れた

ネットにつながってるといろいろできるみたいだな・・・

●LANアダプタとLANハブを買った

昔のゲームもできるんだ・・・

●クラシックコントローラとWiiポイントを購入

電池が切れやすいな・・・充電池にしよう

●充電池「エネループ」と充電器を買った

やっぱ15インチのテレビだとつまんないな・・・壊れてきたし、
ここはデカいテレビ買うか!

●週末32インチのハイビジョンテレビが届きます

・・・2.5万円のWiiを買ったために大変な散財ぶりです。
そんなお金は無いのでテレビはローン購入。

そして今後も新しいエンターテイメントと引き換えに、
僕の手元からマネーが羽ばたいて行くのでしょう。

・・・Wiiは買わないほうがいいですよ。

「頑張って」は禁句

落ち込んでいる人、困難な目に遭っている人にどんな言葉をかけるか、いつも考えてしまいます。
例えば、介護の世界でごく一般的に言われている事に、

“「頑張って」「頑張れ」は禁句”

というのがあります。

簡単に言えば、リハビリや障害で既に頑張っている人に対して、さらに追い討ちをかけるように「頑張れ」と言うのは、むしろ相手を追い詰める事になるというのがその理由です。
でも実際にはケースバイケースで、もちろん言われて嫌な人もいれば、気にならないという人もいます。
言われて嬉しいシチュエーションというのもあると思います。
それにもちろん言う人と言われる人との関係が大切。
ある人は、こんなことを言っていました。
「私も昔は嫌だった。でもある時に、日本語の場合、「頑張って」としか言えないシチュエーションがあるって気がついたから、今は気にならない」

マニュアルチックな話だけど、同じく介護の場合、「頑張って」という言葉は言い換えとして、
「無理しないでね」
「気楽に行こうよ」
があると言われます。

でも、なんていうか、やっぱりそれじゃ当てはまらないシチュエーションっていうのはあると思う。
ピンとこないというか。
でももちろん不用意に「頑張って」とは言えない。
使い分けにいつも悩みます。

今現在の結論としては、僕自身が実際に相手の努力に貢献できる場合は、なんとか「頑張って」を使ってもいいのかな、と思っています。
「レッツ」に近いニュアンスというか。
「頑張ろう」という感じ。
もちろんプロの介護福祉士だったらまた違う判断に決まってますが、まあサービス業でもなく、コミュニケーションの素養のない僕のような人間だったら、なんとかセーフなんじゃないかと。

ただ、離れたとこにいて、無責任に言う事はまずありません。

言葉を探る旅は続きます。

任天堂Wiiは体重計と繋がる!?

こんにちは。
僕が導いたWiiの今後予想です。
もうすぐ任天堂Wiiが発売で、次世代ゲーム機戦争とかなんとか言われていますが、
プレステ3もXbox360も全然関係ないところへ任天堂は行こうとしています。

●来年後半にWii最大のキラー周辺機器、「体重計」が発売
・本体とのセット販売もされる
・楽しいトレーニングソフト(仮称:ヘルスパック)で健康ダイエット
・体重、体脂肪など、各データはWiiのカレンダーと同期、グラフ表示される
・体重計は、足用のコントロールデバイスとしても使える
・Miiと呼ばれる似顔絵キャラクターとも連携
・もちろん「体力年齢」表示(本体同時発売の『Wii Sports』でも実装)
・Wiiのチャンネル機能に現在「天気予報」「ニュース」などがあるが、当然健康関連のコンテンツが追加される
・値段はソフト「ヘルスパック」込みで6800円~9800円

ちょっと前に書いた日記
にも書いたけど、「健康」「家族」こそがWiiのキーワードです。
実は任天堂ハード、DSも含めて北米でやや弱いのですが、
これならフィットネス・アニマルの北米の人にも訴求力が高い上に、
日本でもゲームに興味の無い層が、
ジムに通ったり、深夜のインフォマーシャルで「アブなんとか」「ロデオなんとか」を購入する層と重なると考えられ、ユーザー拡大が期待できます。
そして、「健康に悪い」「ゲーム脳になる」と言われていた従来のイメージを打ち破り、むしろ親が率先して購入したがる状態に。

さてさて、この予想、当たるも八卦、当たらぬも八卦・・・
情報ソースはご勘弁を。

絵を描くということ

この間、知り合いのイラストレーターの方とちょっと話をしました。
彼女は私と同い年。
雑誌ananの挿画を数年やっていて
(ananはだいたい1~2年でイラストレーターを入れ替えるので、彼女は異例らしい)
他雑誌にもいくつか定期的な仕事を抱えていて、
自分名義の書籍を数冊出版、
文具のデザインなども手がけている。

まあイラストレーターとして活躍して成功しているといえると思う。

でもお互い因果な商売だよね、ということで意見は一致しました。

絵を描いてお金をもらうのは、どこか切ない。

自分の絵がどういう価値を持っているか?

ほとんどの場合、絵描きは上手だから絵描きなのではない。
巧ければ価値が高まるのならば、努力すればいい。

例えば精緻な地図や科学イラストを描くプロのイラストレーター。
でも今はほとんどCGで作られている。

じゃあ才能があるからか?といえばそういうわけでもない。

20歳そこそこなら「才能あるよ」といわれて、
調子にも乗るけど、もうわかってる。
イラストレーターで、「才能がある」ということは、
アートディレクターやプランナーの「その時の」琴線に触れるかどうか、
ということだ。
そして、その琴線自体が、ひとつの「チャンネル」でしかない。
市場と言ってもいい。
例えば「ニューヨークのファインアート市場」のチャンネル。
「二科展」のチャンネル。
雑誌「イラストレーション」のチャンネル。
「アートアニメーション」のチャンネル。
「マンガ・アニメ」のチャンネル。
(蛇足だけど、美大受験に於けるチャンネルも、もちろん存在する。
海外と日本はもちろん、関東と関西で、良しとされるデッサンは違ってくる。
一言で言えば、関東は立体感重視、関西は陰影重視なのだ)

そのどの視点から見ても普遍的な価値を持つ絵なんて存在しない。
そして露出が増えれば、消費されて、古くなる。

つまり、イラストレーターは、ラッキーボーイ、ラッキーガールなのだ。
なので、長く続ける人は、アートディレクションなりへと、
イラスト以外の分野に進出することになる。
30歳前後というのは、その軸足をどこに移していこうかと、
考える時期なのだと思う。

私も考え中であります。

「王道」について

今日発売の雑誌、AERAに、
秋元康と日産のデザイン部だかの人が
対談している広告記事がのっている。
日産の高級セダン「FUGA」について語っているのだが、
タイトルは「王道とは何か」。
なんだかFUGAはセダンの王道とかなんとかごちゃごちゃ言ってるのだが、
あまりにも「王道」を連呼しているので呆れてしまった。
正統派とか安定感とか高級感とかメインストリームとかを言いたいのか。

これは誤用だ。

初めてこの使い方を見たのは、数年前、
どこのメーカーだったか忘れたが、缶コーヒーのCMだった。
コピーはずばり
「缶コーヒーの王道」。
ひょっとしたら広告業界で密かに広まっている、
新しい使い方なのかもしれない。

世界史を勉強した人ならわかると思うのだが、
王道とはふたつ意味があって、
ひとつは儒教の教えに基づく政治思想。
仁徳に基づいた武力に頼らない治世。
対義語は覇道。
もう一つは旧約聖書でモーゼがエジプトを脱出して
ヨルダンを北上した「王の道」。
そこから派生して近道、安易な道という意味だ。

この誤用は諺、「学問に王道なし」から来ているのかもしれない。
これは「学問には正統派の正しいやり方はない」
という意味ではなくて、
「学問に近道はない、コツコツ地道に勉強するのが最良の道だ」
という意味だ。
ちなみにこれは幾何学の祖、ユークリッドが、
エジプトのファラオの問いに対して答えた言葉とされる。
王道という言葉には、もともと正統派とか安定感なんていう意味はないのだ。
いわんや高級感をや。
その誤解と共に、二つの意味がごちゃごちゃに使われているのかもしれない。
以前から例えば「ダイエットの王道!蒟蒻うんぬん……」みたいな、
誤用(っぽい)用例はあったのだが、
結果的に「近道」に置き換えても差し支えない使い方だった。
つまり同じ名詞でも「物」を指す言葉に対しては使えない言葉なのだ。

ただの広告じゃなくてAERAとのバーターなんだから、
AERA編集部の文系インテリの連中がなんか言ったりはしないのかなあ?
まさか全員知らないなんてことあり得ないだろう。
別に「美しい日本語」とか唱えるつもりは全くないけど、
こんな誤用がまかり通って、コピーライターが金儲けしてるのはどうかと思うのだ。
「食の王道は寿司…セダンの王道はFUGA。」
誤用を利用して、コピーの印象を高めるというのはコピーライターの常套手段だけど、対象年齢層とか考えるとなんか天然ぽいというか…王道より王様の方がまだしっくりくる。
「王道」とか「王の道」は日本人以外も使う思想だったり故事だったりするんだし。
俺がただ単に細かいのかなあ…

歴史小説とかビジネス雑誌とか

最近、歴史小説を通勤電車の中で読んでいるサラリーマンの気持ちがよくわかる。
昔はある程度年をとると、歴史に興味が出てきたりするのかなあと漠然と思ってたけど、実感としては、なんか読むと楽なのだ。

なんていうか、仕事をしている時と頭の使い方が似ているというか、切り替えなくてもいい感じ。

本を読み始める瞬間に、その世界に潜っていく感じって、ちょっとした休憩や合間には億劫に感じることがある。
それを比較的感じない。

ビジネス雑誌も面白い。
今「日経ビジネス」の年間購読をしようか(本屋で売ってないので)ちょっと考えてたりする。

全然役立たない仕事なのにこうなのだから、いわゆるスーツ着たサラリーマンはもっとそうなんだろう。

ああこうやって人はオヤジ化していくのだなあと実感する。

ガラスペン

周りでよく交わされる会話。

年々質が悪くなっていく筆。
素材の動物の減少もそうだし、いい職人さんが減っているのでしょう。

画材の木炭。
これもいい国産の木材も、炭焼き職人さんも、減るどころか、あまり無くなりました。

アナログとデジタル。
紙と筆で描くのか、コンピュータ上にペンタブレットで描くのか。

ソフトとソフト。
MayaとかmaxとかXSIとかPhotoshopとかIllustratorとかPainterとか。

小学生のとき、何故かガラスペンで絵を描くという授業がありました。
購買でガラスペンが普通に売っていたのです。
小学生が手にする文具ですからせいぜい数百円だったと思います。
割り箸ペンとも、先が金属のペンとも違う独特の描き心地でした。
当たり前ですが筆先にコシが全くない。
ガラスという繊細な素材の印象とは裏腹の書き味です。
難点は乱暴に扱うとすぐ割れる事。
裸でランドセルに入れるのは厳禁でした。
でも確か卒業前にはもう作る人がいないということで、購買から無くなっていました。

きっと僕が生まれる前にはガラスペン画を書く人や、ガラスペン字の達人がいたのでしょう。

何年か前のマイクロソフトのCMで、
「アートとはテクノロジーに近いものです」
と言っていましたが、本当にそうだよな、と最近特に思います。

ハイテクであれローテクであれ、およそ表現というものはいろんなテクノロジーに依存してるんだな、と。
「自分の表現」って、テクノロジーの副産物なのだ。

神はサイコロを振る

今週から始まる日テレのドラマ、「神はサイコロを振らない」のタイトルが気になってます。
予告編を見る限り…なんでしょう?感動モノの恋愛ドラマなのかな?
どうも同名の小説のドラマ化らしいので、元はその小説のタイトルが気になる、ということになるんですが。

たぶんこれはTime誌が過去100年で最も偉大な人物として挙げた物理学者、アルバート・アインシュタインの言葉の引用だと思うのです。
量子力学を発展させたニールス・ボーアに対してアインシュタインはこの言葉をいいました。
でもボーア(ら)の提唱した不確定性原理こそが20世紀後半の物理学の発展の礎となったことを考えると、
「神はサイコロを振る」
というのが現在の物理学の考え方だと思うのです。
ちなみにアインシュタインの言葉に対して、ボーアはこう答えたといいます。
「あなたは、話題をいわゆる神の問題に置き換えるのは、注意が必要だと思いませんか?」

たぶんドラマには物理学の「ぶ」の字も関係ないでしょう。
こういう引用というより剽窃の仕方は好きではありません。

日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ

leo_tezuka.jpeg

【地域】の【有名なモノ】
の公式、というのが僕の中にはあって、それはあまりいいものではない。

具体例をあげると…

【下町】の【ナポレオン】
とか
【ナニワ】の【モーツァルト】
とかがそうだ。
【静岡】の【お茶】というのはこの公式には当てはまらない。

なんていうか、こういう代名詞というか煽り文句は、結局のところ対称を矮小化してると思うからだ。
下町のナポレオンは、どう考えてもナポレオンより優れているとは言い難い。
ナニワのモーツァルトも然り。
しかし実際のところ、いいちこはいい焼酎だし、キダタロー氏も優れた作曲家なのだろう。
要は最初っから比べるこっちゃないのだ。
酒の種類も違えば、生きてる時代も違う。

今度タイトルのような本が発売される。
「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ 手塚治虫と6人」

うん、バッチリ公式に当てはまっている。
「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とは言うまでもなく、故手塚治虫氏を指した言葉だ。
これにはわけがあって、落語家の立川談志氏が、生前の手塚治虫氏を称して、
「俺が天才だと認めるのはレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫だけだ」
と語っていたってところに起因していると思うのです。
さらにマンガを発明した偉業をルネッサンスになぞらえているという意味もあると思います。
でもなあ〜やっぱり比べるこっちゃない。
手塚治虫氏を矮小化している。
なにも手塚治虫氏はレオナルド・ダ・ヴィンチよりすごいってことが言いたいわけじゃなくて、でも本のタイトルに付ける必要はないと思うのです。
お2人とも、天才だと思います。

僕は昔「カルトQ」というクイズ番組の、手塚治虫がテーマの回で、テレビ越しですが全問正解だったほどのファンというかフリークに近いのですが、同時にレ オナルド・ダ・ヴィンチも大好きで、いろんな関連書籍を読んできました(こないだのレスター手稿展行けなかったのは悔しかった!)。

それはそうと、この本を買おうか今悩んでいます。

色のいろいろ

「アメリカ人は真っ赤な車を見ると「肉の色だ」と思うそうなんです」

と会議中のふとした雑談から一人の人が言いました。

だからアメ車には真っ赤な車は少ない。
バーガンディとかワインレッドのような、渋い赤ならオーケーなんだけど、真っ赤はアメリカ人にとっては生々しい色に見える。

―へぇ~そうなんだ。

ヨーロッパでは黄色が若々しい色、青が成熟した色なんだって。
草の色からきているらしいんだけど。
だからヨーロッパの高級車はだいたい青とか紺がラインナップされている。
えっ、じゃあサッカーの日本代表のユニフォームってヨーロッパの人からみたら…
うん、日本人からしたら茶色とかみたいな地味~でジジ臭い色なんじゃない?

西欧、つまりアメリカでもヨーロッパでも、黄緑といえば悪魔の色。
旅行行ったとき、黄緑のパーカを着てたらからかわれたよ。

日本だと艶っぽい色といえばピンク色だけど(例:ピンク映画)、中国では黄色がその色に当たるんだって。

濃い紫が高貴な色って、今の日本人にはもうあまりピンと来ないよね。

―とまあそんな話でした。

僕は学校でも色彩学は学んだし、仕事にも関係するので色についての専門的な知識というのは、あるほうだと思うんですけど、赤が肉の色だなんてのは知らなかったです。

面接官をしている際に履歴書を読むと、けっこう資格欄に「色彩検定2級」とか書いてあることがあります。
色に対しての正しい知識を身につける、それ自体はいいと思うんですけれど、別に資格なんか関係ないと思うので、少なくとも僕は全く考慮の対象にしません。
が、みんな興味ある分野なんでしょうかねぇ…やっぱり。
学校とかテキストとか検定料とか、一大産業ですよね。

カラースタイリストやカラーセラピーになると、ちょっといかがわしさを感じてしまいます。

「本場イギリスのカラーセラピーの技術をあなたに…」
最初の例でわかる通り、色から受けるイメージというのは文化や宗教、風土と切っても切れない関係にあります。
目の色によっても見え方は違うだろうし。
色の波長によって人間がイメージを浮かべるというのは、例えば動物にも共通の「赤は攻撃色」なんかはあると思うのですが、細かい色に当てはめると絶対に矛盾が起こるはずだと思うのです。
例えば「虹色」と言えば日本人は7色と思うんですが、これは世界の国々でバラバラで、5色だったり9色だったり、まさにいろいろなんです。
紫は欲求不満?ホントかよ…イギリスの理論だとしたらパープルとバイオレットとどっちのことをいってるんだろ?

カラースタイリストは…ちゃんとしたデザイナーなりディレクターがいれば十分だと思うんですけど…アニメーション業界にはカラースタイリスト=色指定(各 キャラクターの色を決める仕事です)がいますが、これは特殊な部類だし、そんな講座や学校でたからってなれるもんでもないし。
ああ、でも色盲の人にもわかりやすいサインデザインなんていうのは、そういえば専門的な知識を持ってないと、なかなかできないかもしれない。
未だに無神経な案内板や路線図が多いものね。

ちなみに僕の携帯は赤色なんですが、携帯のカメラで、うちのおさるのあぷー君を撮ろうとすると、すごく怖がったり怒ったり警戒したりしました。
それもあって最近紺色のデジタルカメラを買いました。
…これもカラーセラピー?

メディアの寿命

ときどき耳にする。

例えば「iPod買って、今まで持ってた300枚のCDの曲を全部リッピングして、CDそのものは売っちゃったよ」
例えば「昔から録りためていたビデオの中身を全部DVD-Rに入れてビデオは捨てちゃった」
例えば「フィルムスキャナー買って、全部PCの中にデータ化してプリントもネガも捨てちゃった」

これらは、情報のデジタル化という行為です。
まあCDはもともとがデジタルデータですが、物理的な光る円盤そのものはアナログなので。

小説家であり、本の収集家、博物学者など肩書きは多いけれど、最近では「トリビアの泉」に出てるおじさんというとわかりやすい、荒俣宏さんはこうおっしゃっています。

「メディアの歴史とは退化の歴史である」
ここでいうメディアとはマスメディアのことではなく、記録媒体のことです。

現存する最古のメディアは、おそらく石版や洞窟に彫られた絵や文字です。
その次に皮やパピルスに書かれた文字。
グーテンベルクが発明した印刷術以降、紙に印刷された文字が束ねられたもの、本が主流になった。
今も本は世の中に溢れていますが、今の本は酸性紙などの問題で、寿命が昔の本より短いといわれています。

ここまで見てもわかるとおり、実は耐久年数は時代を経るほどにどんどん減ってきているわけです。
4000年前の石版を今読むことはできても、たかだか300年後に今出版されている多くの本はおそらく読むことができない。
歴史とは情報の集積なので、これは大きな問題です。
ギリシャやローマの科学的な叡智が途絶えて、中世のヨーロッパで、魔女狩りや天動説など、宗教的な世界観がまかり通っていたように、情報が受け継がれないと、人間は発展できない生き物だからです。

そこまで大きく考えなくても問題はいたるところにあります。

パソコンの中の情報を貯める場所、ハードディスクの寿命は数年です。
特に3年過ぎたらいつ壊れてもおかしくありません。
iPodなどのHDDプレーヤーも同様です。
CD-RやDVD-Rも誤解している人が多いですけれど、だいたい早ければ数年で寿命を迎えます。
耐久性を謳っているモデルは10年以上持つ、というものもありますが過信は禁物でしょう。
とにかく市販のパッケージのCDやDVDとは、情報の記録の仕方が違うので、耐久年数がまるっきり違います。
しっかり印刷された文字と自分で水性ペンで書いた文字、という風に考えるとイメージしやすいかと思います。
大切な音楽、ビデオ、写真。
デジタル化すると色褪せることもなく、音飛びもなく、ノイズもなく、永久に保存できるというのは幻想です。
全部消えてしまうくらいなら、多少色褪せてても元のままがよかった…と後悔しても後の祭り。

デジタルな仕事をされている人ほど、実はプライベートではデジタル化に慎重な場合が多いです。
デジタル化を決意した場合、ハードディスクが壊れた場合のために、バックアップ用の予備のハードディスクがまずないと不安。
CDもDVDもかさばらないのはいいけれど、3年に一度はデータを新しいメディアに移し替える。
その手間は相当なものです。

さらにデータを読み取る機械の規格が変わったら、その大事なデータにアクセスする事自体が難しくなってしまうという問題もあります。
かつてビデオがベータだったり、レーザーディスクを持っていた人はよくわかるかと思いますが。

某映画会社は、過去の映画のアーカイブを、ビデオ作品も含めて、全て未だにフィルムで管理しているといいます。
今どきビデオくらいデジタルでもいいんじゃないかと思いがちですが、やはり100年以上の歴史のあるフィルムの方が信頼性が高いということなんでしょう。

自分が生きている間くらいの耐久性のある普遍的なデジタル規格…そんなのがあったらいいんですが、当分は出てこないでしょう。

デジタル化はくれぐれも慎重に。

デ・ニーロ伝説

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映画「アンタッチャブル」(芸人さんのアンタッチャブルの方が最近では思い出されますが…)が大好きで、この間DVDを買ったんです。

まだかっこいい頃、というかこれが出世作のケビン・コスナー
この映画で、再び人気が再燃したショーン・コネリー
アンディ・ガルシアもこれが出世作
そしてアル・カポネ役のロバート・デ・ニーロ

衣装がジョルジオ・アルマーニ
音楽が巨匠エンニオ・モリコーネ
そして監督のデ・パルマ節が炸裂!

いやいや、すごい布陣だ…

昔テレビで放映したものを録画したビデオを、それこそ擦り切れるほど観ました。
ファッションやサントラに興味を持ったのもこの映画がきっかけかもしれません。

で、DVD。
豪華特典映像ってやつがついていました。
製作秘話とかが収録されているというんで、それを観たんです。

ここでちょっと話が変わるんですが、ロバート・デ・ニーロの逸話っていうのがあります。

元祖カメレオン俳優のロバート・デ・ニーロ。
「タクシー・ドライバー」での常軌を逸していく人物など、演技力はもちろんのこと、演じる役柄によって肉体も著しく変貌させてしまうことからついた異名です。
いろんな逸話があるんですよ。
【「レイジング・ブル」では劇中で何十キロだか体重を増やした】とか。
で、そのなかに、
【「アンタッチャブル」のアル・カポネ役をやるために前髪を抜いた】というのがあるんです。
アル・カポネというのは実在したシカゴのマフィアで、禿げているんです。
で、それを演じるために、全然禿げていないデ・ニーロは、自らの前髪を抜いた。
初めてこれをなんかの本で読んだときは驚きましたよ。
さすがにカメレオンの異名をとるだけのことはあるな、と。
やれといわれても普通できないですよね。

特典映像のインタビュー、デ・ニーロは出てこないんですけれど、その他の主要な役者、そしてプロデューサーやブライアン・デ・パルマ監督が、いろいろと語っています。
で、デ・ニーロをキャスティングするために苦労した話なんかも監督の口から語られたんです。

「撮影に入る3か月前にデ・ニーロにあったら、やせ細った姿だった。『アンタッチャブル』のあとにも撮影が控えていたから、体重を増やすのは無理だと考えて、ボディスーツを着て恰幅よく見せる事にしたよ」

ええ〜〜っ!
カメレオンじゃないじゃん!普通じゃん!
アル・カポネ役をやるにあたって、大幅に体重を増やした、っていう話、それこそデ・ニーロに関する記述でしょっちゅう出てくるけれど、嘘じゃん!
まあ顔の貫禄を出すために、ある程度は本当に体重を増やしたんだろうけれど、それくらいは他の俳優さんでもやってることですよね。

さらにインタビューは続きます。

「彼には前髪を剃ってもらって、剃り跡はメークで隠したんだ。メークは本当にいい仕事をしてくれたよ」

ええええ〜〜〜〜っ!
髪抜いてないんじゃん!
普通の特殊メイクじゃん!
しかも監督が褒めてるの、デ・ニーロじゃなくてメーキャップ・アーティストだし。
…カメレオン俳優とかデ・ニーロ・アプローチっていうのって、作られた伝説なんじゃないのか?

まあ冷静に考えれば、俳優はその後の活動に支障をきたすようなことをやるのはマズいわけで、例えば前髪抜いちゃったらしばらくは生えてこないだろうし、無理な体重の増減で体壊しちゃ元も子もないんだけど。

もちろん、嘘だったからといって、ロバート・デ・ニーロの俳優としての偉大さは、なんら変わらないのですが。

映画雑誌にもまことしやかに書かれているこの伝説、いったいどこから出てきた話なんでしょう?

美人の基準

美人かどうか?
女性なら誰でも、いや、男性にとっても気になるところです。

美人とはなにか?

この間、レオナルド・ダ・ヴィンチに関するテレビ番組で、モナリザが時代を超えて多くの人々を魅了するのは、黄金比を効果的に使っているからだ、というようなことを言ってました。
ん〜、モナリザ、絵画として至高の価値、美しさがあるのはいいとして、彼女自身が絵を飛び出して現在の街中をほっつき歩いてたら、必ずしも美人とは言えないんじゃないかな。

あと黄金比は人間が生理的に美しいと感じるので、顔の整形をする医者が、顔のパーツのいろんなバランスを黄金比を基準に決める、と言ってたんですけど、これはどうなんでしょうね。
そもそも現代だって、世界共通の美人のコンセンサスってあるんでしょうか?
ミス・ユニバースだって、今年のセクシーNO.1女優(らしい)アンジェリーナ・ジョリーだって、別に世界各地で美人投票をしたわけじゃないですからね。

個人ひとりひとりでも、大きく美人の基準は変わってきます。
「いや、俺的には彼女は超美人だと思うんだけど」「いや〜微妙でしょ」
ってな会話が今日も明日もいたるところで繰り返されている。
でもそのことについては今回は扱いません。
だって、その時代の多くの人が考える美人、いわば社会的な美人のコンセンサスというものは当然あるはずです。
だからこそ、女性の多くは化粧をしたり、エステに通ったり、整形をしたりと、そのコンセンサスに少しでも近づくために、涙ぐましい努力を繰り広げてるんですから。
二重まぶたなのかどうか?ツリ目かタレ目か?唇は薄いとクール?厚いとセクシー?

永遠不変の美人っているのか?

よく時代によって美人の基準が変わるというような事を言います。
昔のアイドルなんかを今見てみると、なんかあまり冴えない感じに見えたりします。

世界三大美女と言われる、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町だって、
現代人から見たら、拍子抜けするような顔をしているんじゃないかなぁ。

で、ここからが本題。

bijin.jpeg

上の右の写真。
昭和の大女優、原節子さんです。

彼女が美人かどうか?
古くさい感じに見えたりとか、いろんな意見があるとは思うんですが、おそらく現代の人でも彼女のことを、ブスだとか変な顔だっていう人は、ほとんどいないと思うんです。
僕はとても美人だと思います。

彼女は1920年生まれで、1935年、15歳の時に映画デビュー。つまり第二次世界大戦の前から女優だったのです。
でも今の日本人から見ても美人に見える。
という事は、戦前から現代まで、少しづつ日本人にとっての美人の基準は変わってきてはいるけれど、根本までは変わっていない、と言えると思います。

いっぽう左の写真。
※こちらから画像を拝借しました

ほぼ日刊イトイ新聞「江戸が知りたい。東京ってなんだ?!」
その3 三越が生んだグラビアアイドル!? 芸妓「栄龍」の光芒。

この記事自体とても面白いです。

この方は大正時代、日露戦争が終わったあとにNO.1アイドルだったという栄龍(えいりゅう)という方なんですけれど、どう思います?

ん〜いや、きれいな方だとは思うんですけれど、なにしろNO.1アイドルですよ?
今で言ったら、好感度NO.1の松嶋菜々子でもいいし、柴崎コウとか、大塚愛とか、とにかく人気があるタレントの顔を思い浮かべてください。
僕の価値観だと、そこまでは美人とは思えない。
リンク先に、もうちょっと正面に近い写真もあるんですけれど、つり目で、一重か奥二重で、かぎ鼻で、眉毛が太くて、少し下膨れで、浮世絵の美人画に近いんですよね。

浮世絵の美人画は、今までに当然目にしたことがあって、これが当時の美人なんだって頭では分かっていても、それがこうして写真になってみると違和感がある。
今の女優がかつらを被って着物を着てるのと、全然違うもんなぁ。
それどころか昔の時代劇映画とも全然違う。
ただ、リンク先に
『今とは「美人」の感覚が違いますね。今の男の人はたいてい、驚きますね(笑)』
とあるので、ひょっとしたら女性の方がすんなり受け入れられるのかもしれませんね。

このブロマイドがだいたい1910年前後。
ということは、1910年代から、1930年代までのどこかで、日本人の美人の基準が大きく変わったんじゃないか?
江戸の流れを汲む美人の基準から、今日まで続く現代の美人の基準へ。

たぶんそれは映画の登場、つまり外国人を目にする機会が増えたからなんじゃないかと、勝手に仮説を立てています。

僕は鏑木清方氏など、昭和初期の日本画、とりわけ美人画が好きなのですが、それは江戸時代からの美人と、現代の美人とが、ちょうどよく重なり合ってるからかもしれません。

名探偵コナンと名探偵ポワロ

推理もののことなんですけど。

「オリエント急行殺人事件」って読んだことありますか?
アガサ・クリスティーの生み出した「名探偵ポワロ」シリーズのみならず、推理ミステリーの中でも最高傑作と称される事も多い名作です。
映画にもなっているので、そちらで観たことがある、という方もいると思います。

※読んでない方には申し訳ないのですが、以下の文章は若干のネタバレが含まれます。

ひとりの男が、列車の中で遺体となって発見された。
列車という密室の中で、被疑者全員に完璧なアリバイがある。
たまたまその列車、オリエント急行に乗り合わせた、灰色の脳細胞の持ち主、エルキュール・ポワロがその謎を解き明かしていくんですが、だんだん、殺された男がとんでもない悪党だったということが解ってくるんですよ。
殺されても仕方がないような男だった。
犯人は、やむにやまれぬ事情で、犯行に至った。
で、真相を解明し、真犯人がわかったあと、なんとラストでエルキュール・ポワロは、真犯人は不明、ということで事件から手を引いてしまってエンディングを迎えます。
つまり、犯人をかばって、警察に差し出さなかったんです。

中学生の時だったと思うんですけど、初めて読んだときには、なんか違和感を抱きました。
と同時にすごいなぁと思いました。

だってこれはもうりっぱな犯罪です。
「殺人」という犯罪の片棒を担いだも同然です。
正式な罪状はわからないけれど、正義の味方失格なのは間違いないでしょう。
でもこうあって欲しい、という読者の心情にはフィットする。
時代劇で言えば「大岡裁き」みたいな感じです。
杓子定規に悪は悪って決め付けたりせず、寛大なんですよね。

実は「オリエント〜」に限らず、推理ものの古典にはときどきこういう結末があります。
古典ではないけど、刑事コロンボにも、死期が近い犯人を、敢えて逮捕しないまま終わるという結末がありました。
現実世界では許されない事かもしれないし、ありえない事かもしれないけれど、僕はこういうお話って割と好きです。

で、すごく話が飛ぶんですけど。
「名探偵コナン」も毎回殺人事件が冒頭で起こって、主人公のコナンくんがさまざなな事件を、常人には到達し得ない推理力で解決していくんですけど、やっぱりそのなかで、殺人の動機が毎回用意されているんです。
中には「うんうん、そりゃ殺してもしょうがないよね」と見てるほうが思っちゃうのもあるんですけど、その度にコナン君は、その理由を突っぱねて、「人を殺すのは許せない!」というようなことを言うんですよ。
で、犯人は逮捕される。
うん、そりゃそうだ。
殺人はいけない。
なんでいけないのか煩悶する若者が多いのかもしれないけれど、ゴールデンタイムのアニメのモラルとしては、殺人はよくない。
でもその割には「なんでいけないのか?」ってところがすっごいおざなりではないのか?と思うんですよね。
みんな死んだ人を悼むのもそこそこに謎を解き始めるし。

んーなんかうまくいえないなぁ…

思うに「殺人はいけない!」「犯人は逮捕!」って、一見単純に見えるけれど、かなり高度な判断が必要なはずなんですよね。
現にポワロもコロンボも「犯人は逮捕!」とは言わない場合もあった。
みんなそれぞれ問題を抱えて生きていて、それぞれの事情が絡み合って生きているんだから、単純な悪人などいない。
それって、下手したら「殺人はいけない!」ってことより先に子どもに伝えなくちゃいけないことかもしれないと思うんです。
繰り返していいますけど、殺人オーケーって言ってるわけじゃないですよ。
実際それでコナン君が犯人をわざと見逃したら抗議殺到でしょうしね。
なーんかいつも…といってもごくたまにしか観ないんですけど…「名探偵コナン」を観てるとそんなことが気になるんです。
だから怪盗キッドと対決してたり、同情しようのない悪人が犯人だったりするだけの方が、ゴールデンタイムのアニメとしてはベターだと思うんですよ。
複雑な問題は遅い時間のサスペンスドラマにでも任せておけばいいんです。

そういえば日本の推理物って逮捕されたり罰せられたりして終わるものばかりではないですか?
そんなにこのジャンルに詳しいわけではないので、ひょっとしたら違うのもあるのかもしれないけれど。
「殺人はいけない!」「犯人は逮捕!」っていうのはモラルの問題ではなくて、日本人の杓子定規な一種の「思想」に近いのかもしれませんね。
…なんか危険思想っぽい締めくくり方で不安ですが。

「ポジティブ・ニュース」

うー別の記事をけっこう終わり近くまで書いていたのだが、なぜか消えてしまった…悲しい
書いていたのは「美人の基準」というタイトル。
画像とか既に用意してあるので、またそのうち書きます。

さてさて気を取り直して、

人間、下世話な話や、ショッキングな話、怖い話、本能的に好きなんだと思います。
ニュース、ワイドショー、いつ観ても人が死んだだの、不倫だの、汚職だの、ひどい話ばかりです。

そういうことを取り扱わないニュース、観ていて嫌な気分になったりしない、むしろ楽しくなるような「ポジティブ・ニュース」とでもいうべきものって地上波のテレビ番組でつくれないんですかね?

僕の彼女はPTSD(心的外傷後ストレス障害)なんですが、地上波テレビの中で、観ることができる番組がすごく限られているんです。
特にニュースや、ワイドショーは、いろいろショッキングな情報であふれていて、いつフラッシュ・バックが起こるかわからない。
だから基本的に観ることができません。
見ることができるのは、アニメ、あんまりどぎつくないバラエティ、…それくらいです。
もちろん、囲碁の番組や、放送大学なども観れますけど、特に興味がない分野の番組をわざわざ観たりしませんよね。

うちだけではなく、鬱などの精神疾患の方で、こういう方は多いらしいです。

さらに、子供にあまり衝撃的な情報を見せたくないという親も多いと思います。
かといってアニメやゲームばかりで視野が狭くなっても困る。
そういう場合も「ポジティブ・ニュース」だったら安心して子供に見せられますよね。

あとは、お年寄りなどにも、こういう番組があったらいいなぁってニーズはあるんじゃないかなぁ…

まあ視聴率はあまり取れなそうなので、NHKがやってくれたら嬉しいんだけど。
やる意味は絶対あると思うんです。

賛成の方、そんなの要らないって方、是非意見をお聞かせください。

絵画教室?表現アートセラピー?

10年以上の付き合いになる友達が、絵画教室を今年から始めました。
場所は国分寺。
ホームページもあります。
本当は許可をもらってアドレスを載せたいところなのですが、
その友達本人は、今、愛知万博のお仕事とかで東京におらず、連絡がとれません。

で、その教室の内容なんですが、
大人も子供も教室には通えるけど、作ったものに対して批評・分析をしたりはせず、
上手になるとかを目的にすることもしないといいます。

ん〜〜絵画教室に通おうとする動機って
「もっと絵がうまくなりたい」
もしくは
「絵がうまくなって欲しい」
なのでは?
批評も分析もしないで上手にもならないんじゃ通う意味がないんじゃない?

と思う向きもあると思うのです。
でもそういうのって、特に情操教育という観点から見てあんまり意味がないんですよねー。
競争社会のひな型が増えるだけと言うか…
子供の絵は本当に純粋なのか?」という項でもちょっとそういう話を書いたのですけど。

で、その友達は「表現アートセラピー」というものを学んでいる身でもあって、全国で行われているワークショップや学会に、助手(正式な肩書きはわからないのだけど)的な立場で参加してるのです。

僕はその手のことって門外漢で、説明があやふやになってしまうのだけど、そもそもセラピーとは心のケアをする療法全般のことで、その中で、比較的よく使われるアートセラピーという手法があります。
絵を描いてもらって、その内容を吟味して、心の問題点を探っていくというものです。
犯罪者の精神鑑定にもよく使われてニュースや週刊誌に載ってたりするので、知っている方も多いと思います。

表現アートセラピーはアートセラピーと言葉は似てるけど全く違うもので、絵を描いたり、粘土をこねたり、ダンスを踊ったり、音楽を演奏したり、とにかくものづくりをする過程自体を、こころの成長や治癒に生かしていこうというもの、らしいです。
専門家から見たらかなり語弊のある言い方なのかもしれませんが。
セラピーというくくりで言うと、なんだか自分には関係ないもののような気がするんだけど、これって子供への教育や、生涯教育全般に役立てられる考え方だと思うんですよね。
だからこそ、友達は教室を始めよう!と思い立ったのだと想像するんですけど。

僕自身が絵を描く仕事だからというのもあるけど、すごく興味のある分野です。

子供の絵は本当に純粋なのか?

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よく「子供の絵は素晴らしい」というようなことを言いますよね。
大人のように、上手く描こうとか、こう描いたら恥ずかしいとか、邪念がない。
ありのままの印象を、素直に描くから、印象派顔負けの色彩感覚だ。
心の中で思った事がそのまま投影される。

僕はそうは思っていません。

いや、もし今描いたような事が当てはまるとしたら、せいぜい2歳から3歳くらいまでの乳児から幼児になるくらいの年代かなぁと思います。

僕が幼稚園の年少の時のことです。
僕はタンポポ組の演劇で、ライオンの役をやる事になりました。
もはや演目がなんだったかも覚えていないのですが、とにかく僕はライオンの役でした。
僕のほかにライオンをやる人は4人。計5人がライオン役です。
セリフをだんだんおぼえて、そのあとは立ち稽古。
みんな頑張って、本番の発表会に向けて練習していきます。

そして本番がいよいよ近づいてきた日、衣装を作る時間が設けられて、みんなそれぞれの衣装を作る事になりました。
僕が作るのはもちろんライオンの衣装です。
画用紙にライオンの絵を描いて、ハサミで切り抜き、お面を作ります。
ライオンの役の5人は一ヶ所に集まって、教室の床に画用紙を置いて、クレヨンでめいめい描き始めました。
僕は当時、動物図鑑が好きで、ライオンの事もよく知っているから、上手に描けるぞ、と内心張り切っていました。

で、描きあがってみんなと比べあってみてビックリしました。
他の子が描いたライオンと僕の描いたライオンが全然違うのです。
上の絵で言うと、左がみんなが描いたライオン、右が僕が描いたライオンです。
(上の絵自体は今の僕がパソコンで描いたイメージです)

そして、みんなは僕のライオンを見て、「こんなのライオンじゃない」と言いました。
「なんでたてがみが無くて毛が生えてるの?」
「なんで目がこわくないの?」
「にんげんみたい」

僕はビックリしました。
そしてみんなの絵をみて思いました。

ライオンのたてがみはそんなにギザギザしてないよ
それにライオンのたてがみは毛がいっぱい集まってできてるんだよ
ライオンの歯はそんなにとがってないよ
ライオンの目はそんなに白目が多くないし、そんなにつりあがってないよ

でも気が弱かったのでなにも言えず泣いてしまいました。

少し経って、みんながなんでライオンをああいう風に描いたかわかりました。
みんなはライオンじゃなくて、「絵本に出てくるライオンの絵」を描いていたのです。

「こういう風に描くとライオンらしく描ける」ということをみんなは知っていたのです。

この話はだいたい僕が3歳から4歳頃の話なので、少なくとも幼稚園に通う頃には、多くの子供はありのままというより、みんなより上手な絵を描きたいと思っている、ということがわかります。
僕自身、絵をもっと上手に描けるようになりたいと思っていました。
でも手が思うように動かないし、いい色で塗れなかった。
そんな記憶です。

類は友を呼ぶ

アニメーション会社で働いていると、周りはアニメオタクばかりかと思いきや、意外にもそんなことはない。
TVアニメとかも、普段全然観ないって人もいます。
もちろん筋金入りの人も中にはいるのだけれど、少なくともうちの会社では少数派です。
でも体育会系のさわやか営業系の男子や、ブランドじゃらじゃらのOLはもっといないですねぇ〜…
そう考えるとやっぱりアニメ業界にいる人の傾向ってあると思うのです。

先日、会社のトイレで用を足したあと、さて拭こうかと手を伸ばしたら…ない!
紙がない!
ホルダーにあるはずの紙がないのです。あるのは芯だけ。
まあ用を足したあとに気づいた僕も僕なのですが。
で、どうしたかというと、半分くらいフワッとパンツとジーンズをはいて、隣の便器に移ってなんとか事なきを得ました。

「用を足して、もし紙が無くなっても、次の人のために紙を補充しない」人達が集まった集団なんですよね。アニメ業界って。
公衆便所じゃなくて、せいぜい数十名の人が使うトイレ、いや公衆便所だって、次の人のためにトイレットペーパーを補充するべきに決まってるんだけど、次の人も、前の人も、同僚や先輩や後輩なんだから、次の人のために補充して当たり前だと思うんです。
思いやりとかマナーとかが、なんか欠けてる。
なにより想像力が欠けてるんでしょうね。

実は美術大学に通ってたときもそういうことをいつも思ってたんだけど、絵を描くとか、デザインするっていう、ある種クリエイティブな事を志してたり、仕事にする人達って、気配りとか思いやりが欠けてる人が多いんです。
で、またクリエイターだからしょうがないって周りの人達も大目に見てる。
結果、スポイルされてますます身勝手な人になっていく。

でも個人で活動するにしろ、会社で働くにしろ、生きていく以上、人と人とのコミュニケーションって欠かせないですよね。
というか、ファインアートであれ、デザインであれ、映像であれ、その事自体がコミュニケーションそのものなんです。
身勝手じゃ困る。
「いや、身勝手だからこそ新しい発想、表現が生まれる」と言えば確かにそうなんだけれど、ほとんどの人はただ思いやりが無くてわがままなだけ。

かくいう僕も、介護福祉士という、思いやりを職業にしているような僕の彼女に言わせれば、思いやりも想像力も足りないようです。同じ穴のムジナなんでしょう。

ダッチワイフの語源を探る

先に結論から言えばよくわからないのです。
アメブロの人気blog「語源blog」で、この話題が扱われていました。

http://yumo-p.ameblo.jp/entry-526291f51507fb6a049b66c9c91bd29c.html

実は以前、かなり真剣に、このダッチワイフの由来について調べた事があるのです。

まず前置き。
「ダッチ」は“オランダの〜”、「ワイフ」は“妻”。
「オランダ人の妻」???なんだなんだ?
リンク先でも説明されていますが、ダッチワイフというのが、いわゆるその手の人形の事を指すのは日本だけなんですよね。
英語でダッチワイフというのは抱き枕のことで、東南アジアの籐や竹で編まれた抱き枕を指す場合も多い。
そもそもはイギリス占領時代のオランダで、抱き枕を使うオランダ人を揶揄して、
「オランダ人は抱き枕とセックスする」と言われた事から由来すると言われています。
中国では抱き枕の事を竹婦人と呼ぶそうです。

以下さらにリンク先からの引用です。

一応、「かつてアメリカで‘ダッチワイフ’という商品名でコレ系の人形が発売されたことがあり、日本のメーカーがその名をパクって‘ダッチワイフ’という商品名で売り出した。で、その名前が一般化した」という説もあったのですが……

そう、一説に過ぎず、またアメリカ人にダッチワイフと言っても、まずその手の人形を思い浮かべる人はいないと思います。

さらに、隠語説。
“抱き枕”、という意味から派生して、性的な意味合いを持つ言葉になった。
英語で単なる“錠剤”という意味の「ピル」が避妊薬を指すのと同じです。

…でも、いまいち決め手に欠ける気がします。

ここでひとつ珍説を紹介します。
というか、これを書きたくてこの記事を書いたようなものなのですが。

これは日本贔屓のあるアメリカ人が、昔パーティーの席で言っていたことです。

鎖国時代、長崎の出島に滞在するオランダ人達は、当然、遠く離れた祖国に妻子を残して来日している。
そこで、日本で妾を作った。
その妾たちのことを、オランダ人の妻、ダッチワイフと当時の人々は呼んだ。
(江戸時代に英語?というそもそもの疑問がありますが、当時はオランダ語、もしくは日本語で呼ばれていて、後に日本人にとってメジャーになった英語に訳されたという見方をすることもできます)
南極探検隊が日本を離れて僻地で作業する時の、その手の人形を、オランダ人にとっての妾となぞらえた事から、ダッチワイフという言葉が生まれた。

日本だけが違う意味になってる理由はうまく説明できてると思うんだけど、確証はもちろんありません。
ただ話としては面白いので、僕は個人的にこれを信じたいな、と思います。

もちろん妾という制度や、旧来の女性蔑視、及び民族差別を是としているわけではありません。

パン屋の恐怖

大学生の頃、○○製パンという大手パンメーカーでバイトをしたことがある。
夜勤で、確か12時間働くと14,000円くらいもらえたと記憶している。
一日に一万円を超える、というのは拘束時間に関わらず、
その頃の僕にとって、割のいい仕事かどうかのボーダーラインだった。

出勤するとタイムカードを押して、ロッカールームに行って着替える。
作業服は白の上下。靴とベルトだけ持参したものを使用して、あとは支給される。
きんちゃく状というのか、小学生のときの給食着の帽子のようなものをかぶる。
耳と髪の毛は帽子の中に入れなければならない。
各持ち場に行く。
僕は和菓子部門だった。

それぞれの入り口には使い捨ての食品衛生用の手袋がある。それを手にはめる。
口にはマスクをする。
扉の前には機械があって、「ここに手を入れてください」というようなことが書いてある。
両手をかざすと手袋をはめた手に消毒用アルコールが噴霧される。
それが扉のスイッチになっていて、はじめて作業場に入ることができる。
衛生管理がシステム化されているのだ。

中に入ると独特のにおいがたちこめている。
町のパン屋さんの美味しそうなにおいとは違う、なにか別のにおいだ。
あるいはイースト菌のにおいかもしれない。

バイト初日、持ち場に行って最初にした仕事は、あんぱんの仕分けだった。
目の前に、水色の大きなポリバケツを二つ置く。
そして、返品されたものなのか、在庫余りなのか、賞味期限切れの大量のあんぱんが用意される。
「じゃあこのあんぱんを、あんことパンに分けて、それぞれバケツに入れていって」
僕はあんぱんの袋を開け、パンを割って、あんこを左のバケツに、パンを右のバケツに入れていく。
パンは固くなっていて、緑色のカビが生えているものも少なくない。
また乾燥しているため、どうしてもパン屑が少しずつあんこの方に混じってしまう。
それを毎回数百個分はやる。単調な作業だ。

なぜ仕分けするかといえば、パンは捨て、あんこは再利用するためだ。
パンは数日しか日持ちしないが、あんこは数週間はもつ。
新たに炊いたあんこと混ぜて、再びあんぱんになって出荷されていく。

水ようかんは三人一組で作業する。
一人が期限切れのパックを開ける。
もう一人がそのパックに入っている水ようかんを新しいパックに移す。
最後のひとりはそれをパッキングして、新たな賞味期限が印刷されたシールを貼る。
その作業をひたすら繰り返す。
水ようかん2つ入りのパックだったら、2〜3秒に1パックできあがるので、
1000パック作っても40分程度にしかならない。時間が経つのがとても遅く感じる。

食事の時間になると、食堂に行って食事を食べる。
食事はほとんどが和食で、肉野菜炒めとかサバの味噌煮とかサラダと、米飯だ。
食べ物を作っている工場で、作業員用の別の食べ物を作っているというのも変な話ではある。
でも売店にパンは売っているが、とても食べる気が起こらない。
僕は夜勤で売店が閉まっていたので、どちらにしろパンを食べる機会はなかった。

作業場には消毒用アルコールが至る所に置いてある。
ガラス用洗剤の容器のような、ノズルが霧状になるやつだ。
トレイとあんこがくっつかないようにアルコールを噴く。
床に落ちた団子にアルコールを噴いて元に戻す。
(厳重な管理にも関わらず、靴は持ち込みだし、搬入、搬出があるので、床は土足同然だった)
食品の原材料に「消毒用アルコール」と書きたくなるくらい、
なにかにつけて、アルコールを噴いた。

やらされる作業の意味合いを考えると気が滅入ってしょうがないのと、
単調な作業と、過ぎる時間の遅さに辟易して、数日でバイトは辞めた。
その後数年は、そのメーカーのパンや和菓子は食べることができなかった。

新鮮な野菜や、生産者まで遡れる安心な牛肉を売りにしてるハンバーガーショップも、
バンズ(パンの部分)がこのメーカーだったりするので、がっかりする。
まあ日本全国のチェーンに安定供給できるメーカーなんて
数えるほどしかないのだから致し方ない。

それから少しして、そのパンメーカーの賞味期限偽装事件が起こった。
小売店に製造年月日が未来の商品が届いたことで発覚したのだ。
関係者で驚いた人はいなかっただろう。

その後雪印の事件なども起こったし、
ひょっとしたら今はもうちょっと現場はマシなのかもしれない。
でも、規模が大きい会社であればあるほど、システムはしっかり作れても、
現場で作業する人達に、衛生概念が浸透しにくいのは確かだと思う。
また工場やファミレスの厨房など、直接食べる人の目が届かないところでは、
こういうことは今も日常的に行っているところは多いはずだ。

今は気にしてもきりがないので、そのメーカーのパンも普通に食べています。

救急車に乗る

僕の会社は大きな街道沿いにあるので、救急車やパトカーや消防車のサイレンがよく聞こえます。
よく行く飲み屋のマスターが、
「最近の緊急車両はカーナビつけてるから、運転者がコンピュータに従って、昔よりも抜け道を使わなくなった」
と言ってたんだけど、本当なんでしょうか?とにかくサイレンの聞こえない日は、ほとんどありません。

小さい頃、救急車に乗ったというクラスメイトを羨ましいと思っていました。回りの車が道を空けてくれて、信号を無視して走る車に乗るのは、さぞかし気持ち いいだろうなぁ、と思ったから。患者として乗るのは嫌だけど、付き添いならいいなぁと、都合のいいことを考えていました。
そして幾年月、ここ一年で、ついに救急車に乗ることができたのです!しかも二回も。患者じゃなく付き添いで。
で、結果から言うと…全然気持ちよくなかった。二回とも彼女の付き添いだったのだけど、まずそれどころじゃないのね。早く病院に着いてくれと思う気持ちばかりで、全然早く車が走ってると思えない。それにカーテンしてるから外が見えない。
どれくらいのスピードで走ってるかも、どこ走ってるかも全然乗っててもわからない。考えが浅はかでした。
いろんなサイレンを聞くたびに、それぞれ切迫した状況がそこにあるんだなぁ…とすこし想像力が働くようになった今日この頃です。